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佐賀大学 農学部 食資源環境科学コース 生産環境化学分野 におい農学研究室(上野研)

教員メッセージ(学生インタビュー形式)

動画編集の得意な学生が作ってくれました。ありがとう!

佐賀大学 農学部 上野大介 YouTubeチャンネルはこちら

インタビュー(前半)
00:00 どのような研究をしていますか?
01:44 「匂い」は作物からのメッセージとは?
02:55 どのような社会貢献ができますか?


インタビュー(後半)
00:00 研究室の教育方針は?
03:40 大学の先生をして良かったことは?


教員紹介

氏名

上野 大介(うえの だいすけ)

佐賀大学 農学部 上野大介

職名

佐賀大学農学部 准教授

最終学歴

愛媛大学大学院連合農学研究科生物環境保全学専攻
博士課程修了(2002)

学位

博士(農学)(愛媛大学:2002)

所属学会等

環境化学会
においかおり環境学会
農業農村工学会
土壌肥料学会

担当科目

学部専門:
・農薬化学(3年後期)

趣味・特技ロードバイク通勤(往復20km)、単管パイプ工作、家庭菜園(200坪を管理)、養鶏(採卵用)、ゴルフ(少々)、SF作品の鑑賞と考察(映画、アニメ、小説)

メール

uenod * cc. saga-u. ac. jp
(*を@に置き換えてください:迷惑メール対策)

 

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履歴

 ときどき博士進学を考えているという学生から、「進学を決意するときはどのようなことを考えていたか」ということ聞かれるので、研究に関する自分の経歴をまとめてみました。

 もし博士課程に進学するかどうか悩んでいる学生さんがみているなら、「やりたいと感じているなら、やらなくて後悔するより、やってみたらいいんじゃないかな」と言うようにしています。無責任に聞こえますが、たのしくやっていればなんとかなります。

 あらためてこうみてみると、その当時は先を考えて一生懸命やってるつもりだけど、行き当たりばったりな人生だなあと思います。そしていつも重要なところで恩師や周囲の方に助けていただきながら生きてきたなあと思います。あらためてここで感謝いたします。

年  月 事    項
1975年 宮城県仙台市にうまれる
→いま思い返すと、研究っぽいことは好きだったのだと思う。虫かごが満杯になるまでザリガニを採ったり、夏休み自由研究でず~っとツバメの巣をみてたり、買ってもらった顕微鏡でず~っとカビをみてたり、サンタさんにもらった手持ち望遠鏡でず~っと星をみていたり。星座の図鑑の記述の矛盾について疑問をもって出版社に質問の手紙をかいたら、天文台の方(?)から返事がきて嬉しかったのは覚えている。ついでに、ザリガニを家の中で飼育していて,ドロドロの臭い水のたまった水槽を台所でひっくり返して,母親が激怒したのを思い出した。
1997年3月 北海道東海大学工学部海洋開発工学科卒業
→高校時代に「環境問題の改善で社会の役に立ちたい」と考えるようになる。某国立大学を目指すが受験で失敗。環境系としてたまたま受験して拾ってもらっていた東海大学に入学。
→初めての北海道。
→1~3年生は、部活(空手部)、サークル(イベント系)、学園祭実行委員、旅行(ヒッチハイク)、バイト(牛丼屋、配送ピッキング、戦隊ヒーローショーの中のヒト)などに没頭。
→北海道は旅行者天国。先輩と連れ立って、札幌から根室(日本最東端)まで、往路は徒歩(約400km)、復路はヒッチハイクで往復。たしか現金2万円だけもって、テントをたてて飯盒で米を炊いて歩いていた気がする。

→4年生から卒業研究として、環境化学系の植松光男教授にご指導いただく。初めての無機系の化学実験に没頭。
→大気中微粒子(エアロソル)中の元素の挙動把握がテーマ。フィルターをプラズマ分解し、酸分解し、フレームレス原子吸光高度計(たしか日立製だった)でアルミニウム濃度を分析。
→ひたすら実験するのって楽しいなあと実感。
→たまたま図書館で見つけた愛媛大学の田辺教授(当時は助教授)の研究室に興味をもつ。化学物質による環境汚染の調査に関する本だった。これが今の専門分野になる。きっかけは意外と単純。
→植松教授に田辺研のことを相談すると、「まず見学させてもらったらいいよ」とアドバイスをいただき、見学に行く。
→田辺教授に手紙(当時はまだメールや携帯電話はなかった、ポケベルはあった)を書いた時に、先輩から「もっとキレイな字で書け!」と指導いただいたことを覚えている。
→田辺教授に面談していただいた(あの字でも読んでもらえたことに感謝)。
→「研究成果は社会に還元するべき」という話をきき、環境問題で社会に役立ちたいという思いがよみがえる。受験を決意。
→4年生の冬に愛媛大学農学部修士課程を受験。ギリギリで合格。
→このときの経験から、教員として学生から進学を相談された場合には「まず見学にいってきたら」と指導するようにしている。
1997年4月

愛媛大学大学院農学研究科修士課程生物資源学専攻入学
→修士から愛媛大学にお世話になる。松山に引越す。
→卒業する先輩(見学で一回あっただけだが)のアパートに居抜き(?)で引っ越す。2万円/月くらいの、昭和初期に建築されたような、共同トイレ、共同ユニットバスのアパートで、ときどき20cmくらいのネズミがでて食品をかじられるようなところだった。
→環境化学研究室の田辺信介教授にご指導いただく。
→初日に、「君の入試の成績はギリギリ。英語は全然ダメ。バカは寝ないでがんばらなくてはいけない」と指導をいただく。
→自分としては、この「バカは寝ないで頑張れ」という田辺イズムに心酔し、とにかく目の前の研究課題に没頭する。
→いま思うと、田辺教授でなかったら受験で落とされていたのではと思う。
→研究をするには英語が必須と理解。留学生を捕まえて英語を練習する。
→有機系化学実験(POPs分析チーム)に配属。魚介類チームとして、魚介類に含まれる環境汚染物質を分析する。
→当時は、GC-ECD(ヒューレットパッカード製だった)での分析。当時としてはまだ珍しいGC-MSもあったが、下っ端は触らせてもらえなかった。
→ひたすら実験と調べ物(ゼミ発表)に没頭していた。
→カツオを高知の港に買い付けにいって、呑んだくれる。
→買ってきたカツオを100匹単位で解剖する。高知の魚屋さんに教えてもらった魚のさばき方と、カツオのタタキの作り方が、かなり上達。今も重宝している。
→カツオとか、マグロとか、イカとか、いろいろな魚介類を分析した。
→いま思うと、難しいことを考えず、ひたすら実験とか文献紹介などに没頭できる環境ってありがたいよなあ、と感じる。教員になると、来年の研究費の申請書作成と、論文投稿と、講義と、大学のいろいろな雑務で、”没頭”という感覚を忘れている気がする。
→そいうえば、愛媛大に入った4月にギター部に入部した。3回くらい通って基礎を教わる。あとは独学で練習を続ける。

1999年3月 同上修了
→あっという間に2年が経過、修士過程を卒業。なんの疑いもなく博士過程に進学。いま考えると、先のことを考えていたようで、たいして考えていなかったのだと思う。いろいろ考えられるかしこさがあったら、心配で進学なんかできなかったかもしれない。
1999年4月

愛媛大学大学院連合農学研究科博士課程生物環境保全学専攻入学
→博士課程が始まる。博士になってから、国際学会や海外調査に参加させてもらう。このときの経験は、教員になってから大きく役だっていると感じている。
→教授の部屋だけエアコンが効いていて、そこに寝袋で寝泊まりしていた気がする。
→いろいろと大失敗をやらかした。思い出しても辛いきもちになる。しかし教授の懐の深さに救われた。普通なら見捨てられていたのではと思う。
→実際、自分みたいな学生が入室してきたら嫌だなと思う。
→このときの経験は、自分が教員となってからの学生との対応の基礎となっている気がする。「まあ、あのころの自分と比べれば、まだましかなあ」という感覚。
→研究室には30~40人くらい?学生がいる大所帯だった。忘年会などは大仕事で、しょっちゅう幹事をしていた気がする。
→大街道でギターとハーモニカをもって流しをしていた。若かったねえ。
→博士卒業後のことを考え始める。しかし自分の研究のことしかしていなかったので、実はあまり考えていなかったのだと思う。
→博士3年生でもまだ論文が1報もでていなくて、あせってくる。
→このころ「きみは研究者に向いていない」と関係者から言われ、今後の進路を悩み始める。
→とはいえ、他のことをする気は無く、目の前の研究に取り組む。

2002年3月 同上修了(博士[農学]取得)
→あっという間に博士も卒業。卒業要件(論文2報)は、邦文2報でギリギリ間に合った感じ。
→となりの教授に「こんなんで博士とらせてもらったの?そっちは甘いねえ」みたいなことを言われる。実際、その通りなんだろうと思った。今後、このままやってけるんだろうかと、とてもツライ気持ちになったことを覚えている。このころが一番つらかったような気がする。
→毎年申請していた学振(DCやPD)は、当然ながら落選続き。
→愛媛県の環境研究所のようなところを受験するも、1次試験の一般常識試験で落選。
→JICA職員も受験するが落選。
→その時点で行き先が決まっていなかった。でもあまり心配していた記憶はない。
2002年4月

愛媛大学沿岸環境科学研究センター研究機関研究員
→行き先の無いことを心配して、教授がバイト扱いで雇用してくれた。時給900円くらいで、最長4時間?/日くらいだったと思う。教員になって改めて思うが、出来の悪いオーバードクターに研究費から給料を払ってくれた教授の懐の深さと、払えるだけの研究費を取得し続けていた研究力の凄さを実感する。

2003年4月

水産総合研究センター瀬戸内海区水産研究所
日本学術振興会特別研究員(PD)
→毎年申請していた学振(PD)が採択された。ほんとうにありがたいと感じた!
→学振は所属を変えなくてはいけないルールなので、修士からお世話になっていた水産庁系列の研究所でお世話になる。広島に引越す。

→田辺教授が巨額の研究費を取得し、農学部にあった研究室が、メインキャンパスに引越すことになる。すでに水産庁系研究室への移籍が決まっていたので、引っ越しだけ手伝った。

→広島では魚介類のダイオキシン分析の立ち上げを担当。分析化学の理論的な部分はここで勉強させていただいた。ここで学んだ分析化学の基礎は、教員になってからとても役立ったと感じる。
→ここのあたりで、博士課程のあいだに溜まっていたデータを論文にできた。
→広島風お好み焼きとホカべんとカロリーメイトを主食として生きていた。
→実験用に繁殖させていた魚類の残りを大量にもらい、それを刺身にしていただいた。

→学振受給者は、所属は固定だが、場所としてはどこで仕事をしても良いことを知ったので、海外で修行したいと考えるようになる。
→いろいろと文献をあさって、分析化学の技術を極めるために修行になりそうなところとして、カナダ環境省を候補として挙げる。
→田辺教授にお願いして紹介してもらい、Dr. MuirとDr. Alaeeに面会に行く。「来年からこっちで実験していいか?」と聞くと、あっさり了解を得る。給料がでている学振(PD)の力のすばらしさを感じる。

→そのころ奥さんになるヒトと出会う(両親の共通の恩師からの紹介)。あれよあれよと、3ヶ月くらいで婚約。両家のご挨拶などの手続き(?)が進む。こういうのは、決まるときはすぐだと聞くが、本当だったと実感。ありがたいことである。

2004年4月

愛媛大学沿岸環境科学研究センター研究機関研究員
日本学術振興会特別研究員(PD)
→カナダへの渡航中の所属として、愛媛大の田辺教授に引き取ってもらう。
→なぜそんなことになったかというと、たしか水産庁系列の研究所で受け入れているポスドクは毎日ハンコを出勤簿に押印しなくてはならないので、そのままの所属で海外にいくとハンコが押せないのでダメ、といわれたからだったような気がする。
→しょうがないので、愛媛大の田辺教授に相談して受け入れ教員になってもらうとしたが、学術振興会のポスドクは出身研究室の所属になってはダメという決まりがあり、隣の研究室の岩田教授に受け入れ教員になっていただく。
→ビザの関係で、カナダへの出発が5月になったので、一時的に愛媛大にお世話になる。

2004年5月

Canada Center for Inland Waters (Ontario), National Water Research Institute, Environment Canada:
カナダ環境省、国立水圏研究所、カナダ陸水研究所(オンタリオ): 日本学術振興会特別研究員(PD)
→いろいろと手続きを済ませて、5月ころに出発。カナダ環境省に押し掛ける。
→学振(PD)は3年間なので、あと2年は修業ができると計画をたてる(学振はありがたい!)。

→Dr. Alaeeとの共同研究として、日本から持って行ったカツオのサンプルを使ってHCBDの分析を始める。
→Dr. Muirとの共同研究として、五大湖の水や魚類のOH-PCBsおよびOH-PBDEsの分析を始める。

→地元の学会で知り合った水道局研究員のおじさんが、近所の自宅でギター教室をしていることを知り、ブルースギターを習い始める。
→ハンバーガーとポテトばっかり食べて太る
→小さな韓国用品店で味噌を発見。みそ汁や豚汁のうまさに感動する。

→学振の残り期間も短くなり、日本国内の公募に出しまくるも、どんどん落選。
→学振が切れたあとのことを、カナダの共同研究先のあちこちに相談していたところ、数年はプロジェクト付きPDとして雇ってくれそうな口をみつける。

→このころに、両家から「早くけじめを付けたほうがよい」という話が強くなり、結婚式の段取りが始まる。いったん帰国して式を挙げて、また戻ってくる。こういうのは進むときはどんどん進むと実感。ありがたいことである。

→ちょうどそのころ、佐賀大で最終選考に残る。一時帰国し、審査を受ける。あまり手ごたえナシ。
→ああ、またダメだったかと思っていたところ、しばらくして採用の通知がとどき、1か月以内に着任せよとのこと。あと数年はPDの行き先もあったのでもう少し修行したいという思いもあったが、このようなご時世でまことに得難いオファーなので、帰国することを決断。ばたばたと帰国準備。

2005年10月 佐賀大学講師(農学部)
→10月から着任。
→着任初日にコース主任の先生から、「すでに指導学生2名が決まってるから」
→しかし居室は、1室1スパンのみ。え~、どうするの?
→いろいろ聞いて回ったところ、研究室の部屋はどうやったらもらえるのか明確なルールは無いようである。
→分野の先生に実験室の一部を融通していただき、実験を始める。

→機器類がまったく無いので、ときどき愛媛に渡航(九州-四国フェリー)し、田辺教授の実験室を使わせてもらいデータを出す。出身研究室のありがたさを実感。
→同世代で地方大に着任した先生方の話を伺うと、みなさん、だいたいの地方大学の新任教員はこんな感じのようである。

→上述したが、自分みたいな学生が入室してきたら嫌だなあと思っているが、まだ自分ほどの大失敗をする学生はいないので助かっている。これまでいろんな学生と接してきたが、「自分よりはマシかなあ」と感じるので、多少の失敗については怒ったり責めたりする気にはなれない。自分自身、いまだっていろいろ大失敗しているしね。
2013年12月 佐賀大学准教授(農学部) 
  現在に至る

 

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佐賀大学 農学部 食資源環境科学コース (大学院 農学研究科)
生産環境化学分野
上野大介

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電話:0952-28-8713(農学部総務係)

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